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おきがるみがる

お気軽&身軽に生活・仕事・趣味を楽しむ雑記ブログです。

伏見・醍醐にある文化財と歴史散歩

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これまでの歴史散歩は京都・山科の地域を紹介してきましたが、今回からは伏見へと舞台を変えます。

と言うよりも山科の延長で醍醐の地域を紹介するという感じですね。醍醐は山科盆地の中にあり、南山科とも称されます。

地下鉄醍醐・石田駅周辺の散策ですが、地下鉄東西線で山科方面から乗り換えなしで訪れることができるので、山科を散策したついでに行ってみるのも良いでしょう。ぶっちゃけ山科より見応えがあったりして……。

冒頭の写真は醍醐寺境内にある観音堂です。御朱印をもらえるのですが、ここに入るまでにお金を払う必要がありますので注意です。

※前回の記事はこちら

www.okigaru-migaru.net

醍醐寺

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醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山です。

寺伝によれば、874年に開祖・聖宝(理源大師)が笠取山上(現在の上醍醐)に草庵を設け、准胝・如意輪観音像を彫刻・安置したのが始まりとされています。

907年に醍醐天皇の勅願寺となり、下醍醐で926年に金堂、951年に五重塔などの諸堂が建立され、大伽藍を誇りました。

室町幕府の崇敬を得て全盛期を迎えましたが、応仁・文明の乱により、五重塔を除く堂塔伽藍を焼亡しました。

1598年に豊臣秀吉が行った醍醐の花見を契機に再興し、明治時代初期の廃仏毀釈の影響で多くの子院を失いましたが、山上と山下に広大な境内が広がり、醍醐寺境内として国史跡になっています。

三宝院

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総門から境内に入り、北側に三宝院があります。1115年に醍醐寺14世座主・勝覚僧正によって創建され、

現在の三宝院は、元は金剛輪院と呼び、秀吉の援助で再建するにあたり、その名跡を引き継がせたものです。

切妻造・本瓦葺きの玄関から上がります。

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三宝院庭園は、表書院の南に広がっています。豊臣秀吉1598年の醍醐の花見のおりに、自ら縄張りしたといいます。

鶴亀の島を池中央に浮かべて土橋を架け、「藤戸石」に代表される名石を配した池泉庭園です。その庭園は、花見の後、座主・義演(1626年没)が死に至るまで何回も手を加えながら作ったそうです。池東南隅の豪壮な3段の滝石組は、1615年の完成と云われています。

事前に調べていたところ、三宝院庭園では観光客のカメラマナーが悪いことから撮影禁止とのことだったのですが、僕が行った時は普通に撮影OKでしたね。特別公開の時期じゃないからですかね?

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表門東側に唐門があります。平唐門で、中央2枚の扉には五七の桐紋、その両脇には複弁12葉の菊花紋が配されています。

勅使門として天皇の使者を迎える時だけに開けられるとされ、創建時の門は全体が黒の漆塗りで、菊と桐の紋には金箔が施されていました。

仁王門

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三宝院を出て東へ延びる広い参道「桜の馬場」の奥には仁王門があります。

秀吉の死後に豊臣秀頼が再建したもので、門中の木造金剛力士立像は旧南大門に収められていた像でした。

仁王門再建にあたって移され、胎内銘から1134年に仏師勢増・仁増によって作られたことがわかっています。

仁王門から先にこれから紹介する五重塔や金剛、清瀧宮本殿はありまして、ここからは参拝料を払う必要があります。

五重塔

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五重塔は、平安時代創建当初の姿を唯一残す建物で、京都府内では現存最古の建造物であり、国宝に指定されています。

醍醐天皇の冥福を祈り、朱雀天皇が936年着手し、村上天皇の952年に完成しました。

本瓦葺き、高さ約38m、塔上部の相輪高約13mとされています。

金堂

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五重塔の北には下醍醐の中心建物である金堂があります。

桁行7間、梁間5間、一重、入母屋造・本瓦葺きで、これも国宝です。

この建物は平安時代後期に紀州湯浅(現在の和歌山県湯浅町)の満願寺に建てられたものを、醍醐の花見の折に移築したものです。

清瀧宮本殿

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五重塔西側には醍醐寺総鎮守清瀧権現を祀る清瀧宮本殿が設けられています。

室町時代の建物で、三間社流造・檜皮葺きで、上醍醐に祀られていたものを下醍醐へ分祀したとされ、現社殿は1517年に再建されました。国重文に指定されています。

これら五重塔や金堂、清瀧宮本殿が所在しているのが下醍醐で、険しい山道を1時間近く登った先に上醍醐があり、そこに国宝の清瀧宮拝殿があります。

かなり厳しい道程なので参拝するには相当な覚悟が必要でしょう。僕は行く予定も勇気もありませんw

理性院と報恩院

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醍醐寺にはかつて多くの子院がありましたが、現在は理性院と報恩院の2つしか残っていません。

理性院は三宝院の北に位置し、真言小野派理性院流の法を伝えています。

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報恩院は霊宝館の南に位置し、上醍醐にあった極楽坊を憲深座主が報恩院と名を変え、後宇多法皇が下醍醐に移したものです。

長尾天満宮

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仁王門前の道を北に上がったところに長尾天満宮の参道があります。

秀吉が紀州湯浅から金堂を移築する工事中、怪我人が続出したので、醍醐天皇御願の寺に功徳することへの菅原道真の祟りであるとして勧請されたと云われています。

全国各地の天満宮と違わず、学問・受験の神として信仰されています。

腹帯地蔵尊(善願寺)

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醍醐寺の総門前を南北に走っているのが旧奈良街道で、醍醐寺より南へ行ったところに、街道に面して堂が立っています。ここは腹帯地蔵尊の名で知られる善願寺です。

寺伝によれば、行基上人の開基と伝えられ、現在の本堂は1844年の再建とのこと。

平重衡(平清盛の五男で三位中将)の生誕を祈って像が造立されたとのことで、街道に面した格子戸越しに望める木造地蔵菩薩坐像は、下裳が腹帯に見立てられ「腹帯地蔵さん」と親しまれています。安産祈願に訪れる人も多いそうな。

境内のカヤの木は、小野小町伝承の深草少将百夜通いに関係するもので、小町が日数を数えるのに使用したカヤの実が1つ育ったものと云われています。

一言寺(金剛王院)

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一言寺金剛王院が正式名称で、藤原信西(通憲)の娘・阿波内侍が開基と伝えます。

本尊の千手観音に一心に祈願すれば、その一言が成就するということで、一言寺と呼ばれています。

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本堂は1810年の再建で、軒下に「ただたのめ 仏にうそはなきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」と記された額が掲げられています。

真言宗醍醐派の別格本山で、今の金剛王院の寺籍は明治時代に醍醐寺内から移されました。

一言寺は、醍醐寺の著名子院の1つとして国史跡・醍醐寺境内に飛び地指定されています。

栢森遺跡

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一言寺の南、市営醍醐南団地の東北に接して栢森遺跡があります。東大寺再建の大勧進として名高い俊乗房重源が一時住した栢森堂の跡です。

1972年の住宅開発に伴う発掘調査で、八角円堂や方形堂の跡や庭園遺構が見つかり、国史跡・醍醐寺境内に追加指定されました。

八角円堂は、大蔵卿・源師行が建立した二階堂に、方形堂が俊乗房重源建立の阿弥陀堂に比定されています。

その後も新たに発掘調査が行われ、塔跡が見つかっています。その結果、八角円堂・方形堂・塔が南北にほぼ一直線に立っていたことが判明し、塔跡部分も史跡に追加指定されました。

ただ、立ち入りができない原っぱなのであまり見てもおもしろくないかもしれませんね^^;

平重衡墓

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栢森遺跡の南方、辰巳市営住宅の敷地東北角に平重衡墓と伝える石塔があります。

一ノ谷の合戦で生け捕られた平三位中将重衡は、南都焼討ちの責を負い、南都の大衆により木津で首を切られました。

その遺骸と晒された首を、この地に隠棲していた妻の佐局(すけのつぼね)が引き取り、火葬後、高野山に送り墓を設けたと伝えられています。

妻の佐局と重衡については、生前奈良へ護送される重衡がこの地で最後の別れをし、形見として前髪数本と衣服に和歌1首を与えたという逸話が残され、ゆえにこの地を流れる川を合場(愛場)川と呼ぶそうな。

法界寺

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平重衡墓からまっすぐ南、合場川を渡ってしばらく行ったところに法界寺があります。

藤原北家・藤原内麻呂の曽孫・藤原家宗の流れから出た日野家の藤原資業が、1051年薬師如来を安置する堂を建てたのが始まりとされ、日野薬師と通称されています。

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阿弥陀堂は国宝で、方5間の方形堂で檜皮葺き、周囲に吹放ちの裳階をめぐらし、縁板を張っています。

1221年の兵火による焼失後まもなくの建立と推定され、内面の柱や壁、天井には絵画や装飾が施されています。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行った、方形阿弥陀堂建築の貴重な一事例です。

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阿弥陀堂の南にある薬師堂は国重文で、寄棟造・本瓦葺き単層の建物で、奈良県斑鳩町にあった伝燈時から1904年に移築されたもので、建築年代は1456年と云われています。

堂内安置の本尊・木造薬師如来立像は、造立の際に伝教大師(最澄)自作の薬師小像を胎内に納めたと伝え、胎児を宿す仏として安産や授乳にご利益があるとされています。

一般には乳薬師と呼ばれ、女性に多くの信仰を集めているそうです。

日野有範塔

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法界寺を建立した日野一族は、一帯に屋敷地を構えていたと云われており、法界寺の東北には日野一族の墓所があり、日野有範塔と呼ばれる石塔があります。

有範は、浄土真宗を興した親鸞の父で、親鸞はこの辺りで誕生したとのことです。

誕生院

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誕生院は法界寺の東南裏に位置し、浄土真宗の祖・親鸞上人誕生の地と云われています。

日野別堂誕生院と称し、浄土真宗本願寺(西本願寺)の飛び地境内となっています。

本院は、文化年間(1804〜1818年)に本願寺19世・本如が本祖・親鸞の誕生地を顕彰し、法界寺と交渉して境内地の一部を譲り受け、この子・広如上人の1828年に堂を建立したことに始まります。

その堂は、親鸞の父・日野有範にちなみ、「有範堂」と呼ばれました。

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本堂は、1923年の開宗700年記念行事を契機として改築が計画され、1931年に完成したものです。寄棟造・本瓦葺きの建物で、正面は白砂が敷かれ、周囲を回廊が取り巻いています。

井戸と胞衣塚

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お寺の人に案内頂いて、隣接する幼稚園の敷地内にある門を開けてもらいました。

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そこには親鸞誕生の際、産湯に使ったという井戸があります。

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そしてもう1つ、へその緒を埋めたと伝わる胞衣塚があります。

参考文献

京都府の歴史散歩〈中〉

京都府の歴史散歩〈中〉