おきがるみがる

「お気軽&身軽」をテーマにした雑記ブログ。趣味はコンデジでスナップ写真です。

古代三関の成立起源と停廃理由の研究

僕は2013年に大学の歴史学科を卒業し、「古代三関の成立と停廃」というタイトルの卒業論文を書きました。

優秀な論文は毎年刊行される論集に掲載されまして、僕の論文も評価は悪くなかったのですが、教授曰く「見るべき論文がひとつ欠けてたんだよなぁ」とあと一歩のところで掲載には至りませんでした。

それでも「我ながら良く書けた文だ。20枚も書いた」という風に斬新な説を提唱できたと自画自賛しています。

それから5年が経ちまして、あの時頑張って書いた論文に日の目を見せてやろうと思い立った次第です。卒業論文の内容をブログ向けに要約してまとめました。

僕が提唱する説を知ってもらうのと同時に、歴史学科ではどういった研究をするのかという参考になればと思います。

「関西」の語源と定義

まずはアイスブレイクということで、僕の研究テーマがどのような形で現在に伝わっているかについて。

日本の地方を分ける時に使う「関西」は「関の西」と書きますが、関とは各街道の国境付近に置かれた交通検察を行う関所のことです。

古代日本において最重要視された関所は鈴鹿・不破・愛発関であり、「関西」の関はこれら3つの関を指しています。

鈴鹿・不破・愛発関はそれぞれ現在の三重・岐阜・福井と滋賀の東県境に置かれました。すなわち滋賀の東県境より西が関西ということになります。

つまり日本列島の中央に位置して関東圏と関西圏の文化が入り交じる三重県は関西は否かという議論については、三重は滋賀の東県境より東なので関西ではないという結論になります。

一方で三重県は関東でもありません。「関東」は鈴鹿・不破・愛発関が由来ではないからです。関東地方は古代に坂東と呼ばれていた地域がルーツであり、坂東の西端に置かれた箱根・小仏・碓氷関の東側を関東と呼びます。

三重県は愛知県に接しているということで東海地方に属し、またかつて都があった畿内に近接するということで近畿地方にも属します。ただし、「東は関東、西は近畿、北は日本海、南は太平洋に囲まれた地域」を指す中部地方に関しては、近畿に属しているということで対象外になります。

古代における関所の歴史

ここから卒業論文の内容に入っていきます。

日本における関所の制度は遅くとも7世紀頃に始まったとされています。元々は軍事上の防御施設として、律令制以降は浮浪・逃亡を防ぐ交通検察施設として全国の各道に関が置かれました。

関の初見記事は『日本書紀』大化二年正月甲子朔日条(改新の詔)で、「初めて畿内に関を置いた」とあります。また、『類聚三代格』承和二年十二月三日条によれば、陸奥国に初めて関(正確には剗という表記。『令義解』職員令大国条によると、関は勘検を行うのに対して剗は防御を専門とする施設)が設置されて400年余りが経過しているとあります。

つまり関の成立が畿内では西暦646年、陸奥国では西暦435年前後まで遡ることができます。また、詳細な場所を記しているものとしては『日本書紀』天武八年十一月朔庚寅条で「龍田山と大坂山に関を置いた」という記述が初見です。これは難波宮における羅城の築造に伴って設置されました。

全国に数多ある関所の中で最重要視されたのが、

  1. 伊勢国 鈴鹿関(いせのくに すずかのせき)
  2. 美濃国 不破関(みののくに ふわのせき)
  3. 越前国 愛発関(えちぜんのくに あらちのせき)

の3つの関所であり、三関と総称されました。

三関は律令で最重要の関所と位置づけられ、天皇の崩御や政治的事件などの非常事態時には反乱者が東国へ逃げ出ることを防ぐために関を固く閉ざして守護する固関(こげん)が行われました。

最重要視された三関ですが、鈴鹿・不破・愛発関のいずれも成立起源が明らかではありません。そして三関は延暦八年に突然停廃されて機能を失うのですが、停廃に到った真の理由が不明です。停廃後も固関の慣習だけは残りましたが、儀式的な慣例へと変化していきます。

本稿では、

  1. 三関の成立起源
  2. 三関の停廃理由
  3. 停廃後の三関

を論じていき、そして古代日本における三関の存在意義を評価したいと思います。

三関の成立起源はいつか

三関のうち鈴鹿・不破関の成立年代は『日本書紀』天武元(672)年の壬申紀(壬申の乱・大海人皇子と大友皇子による皇位継承を巡る争い)における記述をめぐって議論されています。

「関」や「関司」というワードが登場する一方で、塞いだのは「道」と表現されていることから不破・鈴鹿関が壬申の乱時点において存在していたか否かで議論が分かれます。

三関の成立起源に関する史料

『日本書紀』天武元年六月朔壬午条

六月辛酉朔壬午。詔村国男依。和珥部臣君手。身毛君広曰。今聞。近江朝廷之臣等。為朕謀害。是以汝等三人急往美濃国。告安八磨郡湯沐令多臣品治示機要。而先発当郡兵。仍経国司等発諸軍不破道。朕今発路。

要約:大海人皇子が村国連男依らを美濃国へ派遣し不破道の遮断を命じた。

『日本書紀』天武元年六月甲申条

甲申。(中略)遇于鈴鹿郡則且発五百軍鈴鹿山道(中略)是夜半。鈴鹿関司遣使奏言。山部王。石川王並来帰之。故置関焉。

要約:大海人側の兵士5百人で鈴鹿山道を塞ぎ、大友側の山部王と石川王を関で止めたと鈴鹿関司が大海人皇子に伝えた。

『日本書紀』天武元年六月丙戌条

丙戌。(中略)男依乗駅来奏曰。発美濃師三千人不破道

要約:村国連男依によって美濃国3千人の兵士で不破道を塞いだ。

三関の成立起源に関する先行研究

三関成立に関しては、喜田新六氏、横田健一氏、野村忠雄氏、佐藤宗諄氏、新井喜久夫氏、舘野和己氏、松原広宣氏が以下のように論じておられます。大きく分けて壬申の乱以前の天智朝の成立か、乱後の天武朝の成立に議論は分かれます。

  • 喜田・横田氏:三関の立地場所から、近江国に都があった天智朝の成立
  • 佐藤・舘野・松原氏:鈴鹿関は天智朝から存在していたが不破関は未設置
  • 野村氏:壬申の乱当時は簡素な造りであり、完全に整備されたものではなかった
  • 新井氏:鈴鹿関・不破関ともに壬申の乱以後の天武朝の成立

天智朝説では、三関の立地から近江国に都があった天智朝に成立しており、六月甲申条の「鈴鹿関司」が鈴鹿関の初見としています。あるいは佐藤氏は東国を結ぶルートとして不破よりも鈴鹿を経由する道が重要視されていた。また、塞いだ鈴鹿山道とは別の場所に鈴鹿関が存在していたのではないかと見ています。

一方の天武朝説では、塞いだのは「鈴鹿山」と「不破」であって鈴鹿・不破関は存在しなかったとしています。野村氏は大宝令に規定されているような大規模かつ恒常的な設備の存在は疑わしく、急造された簡単な設備に過ぎなかったと推察。新井市は「関司」という表現に対して『日本書紀』編纂時に律令用語から借用した可能性を示唆していますが、松原氏は不破も同様に「関」と表現されるべきと否定しています。

議論の中心は鈴鹿・不破関ですが、新井氏は愛発関も壬申の乱の中で成立した可能性を挙げています。その根拠は『日本書紀』天武元年七月朔辛卯条・七月辛亥条で、羽田公矢国らが北越地方への進軍を命じられ琵琶湖東岸を北方に向かって出発し、20日後に琵琶湖西岸の三尾城を攻め落としている記述です。東岸からのルートを選んだのは先に北陸道を遮断するためであり、その地が愛発関の成立起源となったと論じています。

三関の成立起源に関する考察

塞いだのは関ではなく「不破道」であるという記述であり、命じてから遮断が完了するまで25日を要したことを考えると、壬申の乱時点で不破関は存在していなかったと考えます。

不破関の成立については『一代要記』白鳳元年三月条と『帝王編年記』白鳳二年七月条に不破関が設置されたことを伝える記事があります。これらの史料は信憑性が乏しく、また記述されている月が異なることからも鵜呑みにはできません。しかし、白鳳年間の初期という点で近似していますし、不破関発掘調査書『美濃不破関』によると東山道に面した築地塀跡付近から白鳳期の軒丸瓦が出土していることから不破関は遅くとも天武天皇即位後である白鳳期には成立していたことになります。

鈴鹿関についても封鎖が行われたのは「鈴鹿山道」であって、そこに鈴鹿関が存在していたとは言い切れません。「関」と「関司」は律令成立後の『日本書紀』編纂時に加えられた表現だと考えます。

壬申の乱以前の成立ではないと考える一方で、天武朝の成立についても定かではありません。三関は律令上に規定されていることから大宝律令が成立する頃には三関が存在していたことになりますが、壬申の乱の終了から大宝律令制定までの間に三関の成立を示す記事が『日本書紀』には見えません。龍田・大坂山における関の設置は記述されているのに、律令政治において最重要視される三関の成立が記されていないのは不自然です。

三関は壬申の乱の中で成立し乱後に設備が完成した

壬申の乱以前・以後共に成立に関わる確実な記事が見えないとなれば、壬申の乱の中で成立したと考えるべきではないでしょうか。

着目すべきは道の遮断に動員された兵士の人数です。鈴鹿山道では5百人、不破道では3千人の兵士が道の遮断に動員されています。大友側は『日本書紀』天武元年七月一日条で数万の軍勢を率いて不破を襲撃しています。圧倒的な戦力差であり、まともにぶつかっては勝てません。

そこで関に備わるような濠や柵、兵士を留める建物といった設備も即席で造ったことが考えられます。その造った設備が鈴鹿・不破関の成立起源となったのではないでしょうか。その時点から関として扱われたのであれば、その場「関司」が任命されて登場しても不思議ではありません。

設備を整えるには非常に短い期間だったため、本来の関と比べて簡素な造りだったのでしょう。乱後も建造が続けられ、普遍的な関の姿となったのが白鳳期に入ってからであったため『一代要記』や『帝王編年記』で成立記事として取り上げられたのではないでしょうか。

鈴鹿・不破関が壬申の乱時に道が遮断された場所を由来とするならば、愛発関の成立も同様の可能性があります。その場合は羽田公矢国らが北陸道を塞いだ地が愛発関の由来になったと考えるべきでしょう。

反乱者の逃亡を防ぐ固関の制度

三関は大海人皇子が東国で挙兵するにあたって、敵の軍が自陣へ辿りつけないように施した防御設備が由来となって成立しました。

そして大海人皇子が天武天皇として即位した律令社会において、非常時に反乱者が畿内から東国へ逃れるのを防ぐ「固関(こげん)」という役割を三関は担うことになります。すなわち皮肉にも天武天皇、かつての反乱者自身の経験に基づいて定められた慣例です。

固関とは、非常時に反乱者が東国へ逃げ出るのを防ぐために関を固く閉ざして守護することです。固関の初見は元明太上天皇崩御を記した『続日本記』養老五年十二月七日条です。また、『続日本記』天平元年二月十日条に記されている長屋王の変においても固関が行われています。その後も天皇の崩御や政変、反乱などといった大きな政治的事件が起こるたびに固関が実施されました。

三関の固関が有効に機能した事例として恵美押勝の乱があります。『続日本紀』天平宝字八年九月乙巳条で恵美押勝の逆謀が発覚し固関が行われます。そして『続日本紀』天平宝字八年九月壬子条で恵美押勝が越前国へ逃げ出ようとしたところを愛発関で阻止したと記されています。この固関によって勝敗を決しました。

律令における三関の軍事的機能

三関が軍事的に重要視されていたことは『続日本紀』和銅元年三月二十二日条の三関国の国守に傔仗(護衛の武官)2人が与えられる記事から読み取れます。

それでは三関は大宝律令の中でどのように規定されているのでしょうか。軍防令置関条によると、関には兵士が配置され、三関には鼓吹軍器(太鼓や吹奏楽器)が設けられたとされています。

兵士の数を記した別式は散逸して不明ですが、他の律令規定から配置された兵士の数を推測可能です。軍防令軍団置鼓条には、軍団も三関に置かれた鼓吹軍器と同じものを持つと規定されています。そして軍団は千人の兵士によって構成されると軍防令軍団大毅条に記されています。鼓吹軍器は大人数の兵士をまとめて動かすことに用いられたとされているため、三関にも軍団と同規模の兵士が備えられたのでしょう。

また、『続日本紀』宝亀十一年六月辛酉条では西内城の太鼓が、『続日本紀』天応元年三月乙酉条では西中城門の太鼓が、『続日本紀』天応元年五月甲戌条では城門と守屋で木を衝くような音が自ずと鳴ったという記述がされています。これらの史料から鈴鹿関において軍防令に示される太鼓と、西内城や西中城といった設備があったことが確認できます。不破・愛発関も同様に備わっていたと見ていいでしょう。

律令における三関の交通検察機能

三関には人や物の往来をチェックする交通検察の役割も規定されました。

衛禁律私度関条によると違法に関を越えようとした者に対して罰則があり、関によって罰則の重さが異なります。その罰則の重さから、

  1. 三関
  2. 摂津・長門関(瀬戸内海交通を東西で結ぶ関)
  3. 余関(その他の関)

という順位が定められています。このことからも三関が最重要視されていることがわかります。

関を通行するためには、「過所(かしょ)」という通行手形が必要ということが関市令欲度関条に記されています。関市令齎過所条によると、関司は関を通行しようとする者の過所を勘過し、過所が正当なものであれば通行を許可して勘検内容を記録しました。

このように過所の発給や違反者への罰則が細かく規定されていることから、過所制度は律令政治において重要な施策であったことがわかります。また、考課令最条によると道を行く者を公平に検察することこそが関司の最であるとしています。すなわち、律令政治における関所の主な役割は交通検察だったのです。

関で交通検察を実施した意図は、本貫地主義(戸籍・計帳に基づく人民支配)を徹底する上で浮浪・逃亡を防ぐことでした。『令義解』軍防令置関条によると、関は各国境に配置されたとあり、人々の移動を一国内に限定する目的と考えられています。

しかし、その説には多くの疑問点があります。『令義解』戸令新附条には関国に対して他国という表現がされており、戸令絶貫条では関の無い国があったことを示唆しています。『出雲国風土記』には出雲国の各郡に関が置かれていたと記されていますが、政治的な有事に際して随時的に置かれる非常置の関が存在したようです。

なぜすべての道の関で恒常的な検察が行われなかったのでしょうか。舘野和己氏によると、過所制以外の浮浪・逃亡を防ぐ手段として「五保の制」を挙げています。これは戸令五家条に定められており、各戸の住民で相互監視を行うものでした。『続日本紀』延暦三年十月丁酉条によれば、都における盗賊の多発に対して五保の制で対応しています。関は設立と維持にコストがかかるため、すべての道において常時運転させることが難しかったのです。そのような理由から関は要所にのみ限定して置かれたと思われます。

しかし、関による交通検察はうまく機能しなかった様子が『続日本紀』霊亀元年五月一日条に記されています。全国で浮浪・逃亡が多く絶えないため、過所に国印を押すことを諸国に命じたとあります。これは過所制度の見直しであり、関による交通検察機能が順調でなかったことを示しています。

三関は延暦八年に突然停廃された

三関は律令政治において軍事・交通的に重要な役割を担っていましたが、延暦八年に突然停廃されます。

三関は防御に使うこともなく、むやみな交通検察によって交通の妨げになっているという理由で停廃したと記述されています。しかし、延暦年間に入って以降は蝦夷との緊張状態にあり、そこで防御を不要と判断するのは不自然です。

史料を表面通り理解せず、真の停廃理由を考察する必要があります。

三関の停廃理由に関する史料

『続日本紀』延暦八年七月甲寅条

甲寅 勅伊勢。美濃。越前等国曰。置関之設。本備非常。今正朔所施。区宇無外。徒設開険。勿防御。遂使中外隔絶。既失通利之便。公私往来。毎致稽留之苦。無時務。有民憂思革前弊以適変通。宜其三国之関一切停廃。有兵器糧糒運収於国府。自外舘舎移建於便郡矣。

要約:特に外患がないため三関を防御に用いることはなく、それどころかむやみな検察で畿内外を隔絶して交通の妨げになっていて時務に益無し。伊勢・美濃・越前国の関(三関)の一切を停廃し、三関が所有する兵器や食料の備蓄は設置している各国府に納め、建造物などは最寄りの郡に移せ。

三関停廃理由に関する先行研究

三関が停廃に到った本当の理由とは何だったのでしょうか。このことについて喜田新六氏、野村忠雄氏、松原広宣氏が各々の見解を述べています。

喜田氏の説は、史料に現れる「時務」は長岡京造宮を意味しているとし、三関の停廃は長岡京造宮事業の円滑化のための施策だったというものです。三関に続いて『続日本紀』延暦八年十一月壬午条では摂津関が、『日本紀略』延暦十四年八月己卯条では近江国 相坂関(おうみのくに おうさかのせき)が停廃され、畿内を囲む5ヶ所の関を停廃することによって東西の交通を開放し、各地方の役夫が盛んに往来できるようにすることが目的だったと論じています。

野村氏の説は、道鏡失脚によって復権した貴族勢力による縮小した形での律令制再建運動の1つであったというもので、『続日本紀』宝亀三年十月辛酉条の墾田永年私財法解禁や、『続日本紀』延暦八年三月戊午条の造東大寺司廃止も縮小政策の一環だったとしています。

また、『続日本紀』延暦八年四月乙酉条の鈴鹿・不破関における飛駅函開見禁止の勅は、三関停廃3ヶ月前の出来事だったため大きく関連しているとしています。飛駅函とは中央と地方間で緊急連絡の際に派遣される飛駅使が携行する太政官符などの文書です。三関における飛駅函開見は律令に規定されておらず途中で慣例化したものであり、愛発関が対象外だったのは実質的に機能を失っていたからではないかと論じています。

この飛駅函開見禁止の勅について、新日本古典文学大系『続日本紀』五には飛駅函開見禁止は東北における対蝦夷戦に伴う情報の迅速化と機密保持が目的だったのではないかと記されており、これを受けて松原氏は三関は人物の交通だけでなく伝達される文書の内容を掌握する情報管理機能の役割もあったと見ています。飛駅函開見禁止により情報管理機能を喪失し、三関は必要とされなくなり停廃に到ったと論じています。

三関停廃理由に関する考察

まず、喜田氏の提唱する長岡京造宮に際した交通の円滑化は三関停廃の主な理由ではないと考えます。

『出雲国風土記』に記されているように郡単位で関が設置されており且つ稼働していたならば、過所の発給と検察が必要であり交通の滞りは解消できないでしょう。三関・相坂関・摂津関以外のすべての関所を停止する必要があり、あるいは過所制度そのものが見直されるべきです。

また、人の往来を円滑にするという理由ならば三関停廃直前に飛駅函の開見を禁止した意図がわかりませんし、造宮のための一時的な理由だったとすれば兵器などの設備をすべて撤去する必要もありません。人の往来が増えることにより暴動や反乱のリスクは大きくなりますから、緊急時の備えとして三関の設備は置いたままにしておくべきでしょう。つまり長岡京造宮という一時的な事情ではなく、完全に廃止するという意図をもって三関は停廃されたと考えます。

長岡京造宮や蝦夷征討で経済的に厳しい状態だったことは間違いなく、その中で縮小政策が行われたと考えるのは自然です。中央国家にとって主な収入は各地方から納められる調・庸でした。調・庸を確実に納めさせるには各国の負担を取り除かなければなりません。そこで行われたのが墾田永年私財法復活による浮浪・逃亡対策や、『類聚三代格』延暦十一年六月七日条の軍団停止などといったコストと負担軽減政策でした。

三関の停廃はその一環だったと見ることができますが、その縮小政策の対象となった理由は議論する必要があります。蝦夷とは緊張状態だったにもかかわらず、なぜ防御の備えであった三関を停廃したのでしょうか。

三関の情報管理機能の喪失

三関停廃の原因を探る上で最も着目すべきは『続日本紀』延暦八年四月乙酉条の飛駅函開見禁止の勅です。その勅が出された背景には、対蝦夷軍事行動が大きく関係しているのではないかと考えます。

『続日本紀』延暦五年八月甲子条によると、蝦夷征討のために東海・東山道諸国に対して兵士や武具の簡閲が命じられています。『続日本紀』延暦七年三月辛亥条で東海・東山道諸国と坂東諸国で徴集された兵士たちに対して陸奥国多賀城に集結するよう勅が出され、『続日本紀』延暦八年三月辛亥条に予定通り兵士たちが多賀城に集結したことが記されています。その約1ヶ月後に飛駅函開見禁止の勅が出されます。

東海・東山道は畿内と東国を結ぶルートであり、その上に鈴鹿・不破関が置かれていました。飛駅函開見禁止の勅は蝦夷征討において情報伝達の迅速化と機密保持を図ったものと思われ、兵士の簡閲が行われる過程でその必要性が挙げられたのではないでしょうか。また、畿内と東国を結ぶルート上に存在する相坂関をはじめとする他の関が飛駅函開見禁止の対象になっていないことから、飛駅函の検閲は三関でのみ行われていた慣例だったことがわかります。愛発関が飛駅函開見禁止の対象になっていなかったのは、北陸道が蝦夷征討における情報交換の主要ルートとして使用されなかったからだったためではないでしょうか。

三関の交通検察機能の喪失

関所で行われた過所勘過による交通検察の目的は政策浮浪・逃亡を防いで本貫地主義を徹底することでした。

しかし、『類聚三代格』延暦四年六月廿四日条では浮浪人をすべて本貫に還すこと、『類聚三代格』延暦四年十二月九日条では太宰府管内9国の浮浪人からも調庸を取り立てるといった政策が行われました。これらの浮浪・逃亡人に対する直接的な対応は、過所勘過による交通検察がうまく機能していなかったという証明です。

浮浪・逃亡は手に負えないほど増加していまい、過所勘過による本貫地主義政策は頓挫し縮小政策の対象となったのでしょう。

三関の軍事的機能の喪失

三関停廃の4ヶ月後の『続日本紀』延暦八年十一月壬午条では摂津関、6年後の『日本紀略』延暦十四年八月十五日条では相坂関が停廃されています。これらの関は三関に次いで重要視された関です。これらの関が停廃した理由についても考えましょう。

摂津関の停廃は三関停廃とは全く別の意図があると考えます。摂津関は難波宮に帯同して運営された関であり、長岡京遷都によって難波宮が撤廃された頃には既に摂津関は機能を失っていましたが、律令に規定があるため即座に停廃することができなかったのです。三関の停廃により関制が解体され、摂津関も公式に停廃に到ったのではないでしょうか。

相坂関は近江国に設置された関です。近江国と三関国に共通する事情として、天平宝字六年に行われた健児の設置があります。健児は『続日本紀』天平六年四月甲寅条で制度として存在していることが確認でき、『続日本紀』天平十年五月庚午条で北陸・西海道を除いて一旦廃止されました。それから『続日本紀』天平宝字六年二月辛酉日条で伊勢・近江・美濃・越前国に健児を置くことが定められて、健児の制度は復活しました。健児には弓や馬の扱いと実戦に長けた者が推薦されて選ばれました。

三関国が指定されていることから、三関の守護は健児が担ったのではないかと考えます。近江国には後に愛発関に代わって三関に加わる相坂関があります。

『続日本紀』宝亀十一年三月辛巳条で、三関国と近江国以外で弓馬の扱いに堪える者の育成が進められます。宝亀十一年は伊治公呰麻呂の反乱により蝦夷征討が本格化した時期で、兵士を募る過程で弓馬の扱いに堪える者が必要とされたのです。弓馬の扱いに堪える者とは健児に相当する兵士です。三関国と近江国が対象外となっているのは既に健児が設置されていたからでしょう。これにより健児の育成が全国的に始まったことと、三関国と近江国が健児先進国として認知されていたということがわかります。

『続日本紀』宝亀十一年七月甲申条によると、蝦夷征討における兵士の徴発は坂東諸国が中心でした。しかし『続日本紀』延暦二年六月辛亥条で、坂東諸国の兵士は役に立たないという理由から弓馬の扱いに長けて戦闘に堪える者であれば浮浪・逃亡人でも問わず徴発されています。それから延暦五年の東海・東山道諸国における兵士の簡閲が行われています。また、『続日本紀』延暦十年正月乙卯条でも再び東海・東山道での軍士簡閲が行われ、その4年後に相坂関が停廃。そして『日本紀略』延暦十三年正月乙亥朔条に蝦夷との戦闘状態に入ったことが記されています。

この軍士簡閲の過程で鈴鹿・不破・相坂関に配置されていた健児が蝦夷征討軍に引き抜かれたのではないかと考えられます。健児が徴発されたことにより関を守護する兵士が不在となり、三関は軍事的機能を失ったと考えます。

時務とは蝦夷征討事業のことだった

三関は情報管理機能、交通検察機能、軍事的機能の3つの役割を担っていました。

しかし、飛駅函開見禁止、浮浪・逃亡の著しい増加、蝦夷征討軍への健児の引き抜きによってすべての役割を失った三関は、縮小政策の過程で停廃に到ったのではないでしょうか。

これらは対蝦夷戦に向けた軍事行動がきっかけでした。つまり停廃記事に見える「時務」とは長岡京造宮ではなく蝦夷征討のことだったのです。

停廃後の三関

三関、摂津関、相坂関は停廃されましたが、摂津関と並んで位置づけられた長門関やその他の余関はどうだったのでしょうか。

三関停廃の記事は『類聚三代格』延暦八年七月十四日条にも採用されているのですが、『続日本紀』の記述とは異なり三関に限定せず一切の関を停廃すると記されています。喜田氏は単なる記述ミスと見ている一方で、舘野氏は弘仁格で当時の実情に合うように記載されたと推察しています。

三関、摂津関、相坂関が停廃されたことにより、過所勘過を必要としない抜け道が生まれました。ゆえに関による交通検察の秩序は瓦解し、事実上一切の関が停廃したと言えるでしょう。

ただし、一部の関では交通検察が継続されました。『日本後紀』大同元年七月乙未条では長門国で、『類聚三代格』承和二年十二月三日条では陸奥国における勘過の失態を指摘されています。三関停廃後でも長門国や陸奥国といった外患を憂慮すべき地域では関による交通検察の機能が必要とされていたことがわかります。

愛発関に代わって相坂関が三関に加わる

『日本後紀』大同元年三月辛巳条で桓武天皇の崩御に対して三関の固関が命じられており、三関は停廃したものの固関の制度だけは残りました。

しかし、停廃以降二度目の固関が『日本後紀』大同五年丁未条(平城太上天皇の変)の中で行われますが、この事件以降の固関は越前国愛発関ではなく近江国相坂関で実施されています。

愛発関ではなく相坂関で固関が行われた理由は、軍団廃止と同時に各国に定められた健児の定数から推察できます。『類聚三代格』延暦十一年六月七日条で陸奥・出羽・佐渡・大宰府を除いたすべての国で軍団兵士を廃止し、『類聚三代格』延暦十一年六月十四日条で三関国と近江国を含む全国において定められた数の健児を置くこととなりました。

野村氏は健児100人以上の国とそれ未満の国とで大別して各国の重要度の指標にしています。100人以上の健児を置いた国は、蝦夷征討における主な兵の徴発地域である坂東諸国、山陰・山陽道の要国である出雲・播磨国、そして三関国と近江国です。その中でも最大の数を擁したのは常陸国と近江国の200人で、三関国を超える兵力を擁していました。近江国は都の東隣にある国なので軍事的に重要視されたのでしょう。

そして平安京や平城太上天皇が遷都を企てた平城京に近かったことから愛発関に代わって相坂関で固関が実行されたのではないでしょうか。

固関の儀式化

固関は平城太上天皇の変での実施を最後に儀式的なものへと変化していきます。

従来の固関では従五位以上の者が固関使として派遣される慣例でしたが、『続日本後紀』承和七年五月癸未条の淳和太上天皇崩御時に行われた固関は変則的でした。まず身分不相応な府生大初位の役人が派遣され、現地に着いてから従四位下の役人が代わって固関を実施しています。これまでの慣例とは変則的な措置がとられているということは、固関の制度が厳格なものでなくなってきていることを示唆しています。

『続日本後紀』承和九年七月丁未条の嵯峨太上天皇崩御で行われた固関は、そのわずか2日後の『続日本後紀』承和九年七月己酉条で解除されています。固関がいつ解除されたかについて記されたのはこの時が初見で、これまでの天皇崩御における固関がどれくらいの期間で実施されたのかは不明です。しかし、政変に便乗して反乱を起こそうとする者が東国へ逃げ出たり、東国から畿内への襲撃を防ぐという目的を考えると2日間の固関は短すぎではないでしょうか。さらに、この時の固関解除と同日に橘勉勢らによる謀反(承和の変)が発生していたのですが、それに際して固関は改めて行われませんでした。

天皇以外の要人が亡くなった場合でも固関が行われるようになりました。『三代実録』貞観十三年九月廿九日壬寅晦条の仁明天皇皇太后藤原順子が亡くなった時や、『三代実録』貞観十四年九月四日辛未条の太政大臣藤原良房が亡くなった際にも固関が行われています。また、前者は8日後の『三代実録』貞観十三年十月七日己酉条で、後者は4日後の『三代実録』貞観十四年九月八日乙亥条で固関が解かれています。

つまり、軍事的な意味合いをもった固関は平城太上天皇の変が最後で、それ以降の固関は天皇の崩御やその他の要人が亡くなった際に行う儀式へと変化していったのです。

固関が儀式的なものへと変化していった理由を考えると、固関による防御の重要性が小さくなったと考えられます。

『日本後紀』大同五年九月戊申条(平城太上天皇の変)で、平城太上天皇が東国へ向かう際に宇治橋・山崎橋・淀に頓兵を置いて警護にあたらせています。また、『続日本後紀』承和九年七月己酉条(承和の変)においても宇治橋・大原道・大枝道・山崎橋・淀渡の5ヶ所の守備が命じられています。

二藤智子氏によれば、これらの警護された場所は平安京から見て三関よりも内に存在しており、固関と合わせて二重の防衛線として利用されたとのこと。『続日本紀』延暦三年七月癸酉条で阿波・讃岐・伊予の3国に山崎橋建造に用いる材を進上させています。山崎橋はおそらく長岡京の運営に際して造られたものであり、都の治安維持の為に用いることも想定されていたかもしれません。そうすると三関の停廃と固関の儀式化の発端は、この山崎橋建造が大きく関係しているのかもしれません。

停廃した三関のその後

機能をすべて失って停廃された三関ですが、停廃による社会への影響はありました。

『類聚三代格』仁壽三年四月廿六日条によると、不破関が停廃してから美濃国に孫王がむやみに出入りしている事態が指摘されています。過所による交通検察は頓挫しましたが、三関がいたずらな人の移動を抑止していたことがわかります。

また、三関停廃から4百年近く経った頃の不破関を詠った和歌が『新古今和歌集』に残っています。

人すまぬ ふわの関屋の 板びさし 荒れにしのちは ただ秋の風

 

(住む人もいない不破の関屋の板庇よ。荒れ朽ちてからというもの、独り秋風が吹き越えるばかり)

この和歌は建仁元年八月三日の影供歌合で、摂政太政大臣藤原良経が詠んだものです。不破関が朽ち果てて大変寂しい様子になっており、かつての不破関は人の往来が多く立派な姿だったということがわかります。これは鈴鹿・愛発・相坂関についても同様だったでしょう。三関は交通の要所に置かれたがゆえに、往来する人々は立派だった三関が荒れ果てていく姿を見てきたはずです。そして藤原良経と同じく寂しい感情を抱いたのではないでしょうか。

三関は大友皇子の進軍を防ぐために、大海人皇子が各道を塞いだ過程で成立しました。乱後の律令社会では反乱者や東国の脅威に対する軍事的機能と、浮浪・逃亡の防止と往来する情報の管理を行う交通検察の役割が与えられました。

しかし、浮浪・逃亡の増加は止まらず交通検察の施策は頓挫に終わり、三関を守護していた健児が蝦夷征討軍に引き抜かれたことで軍事的機能を失い停廃に到りました。

停廃後も固関の制度は残ったものの儀式的なものへと変化し、律令政治におけるすべての機能が廃されました。三関に与えられた役割は律令国家の運営にとって不可欠なものでした。三関が停廃はすなわち、律令時代の終焉を意味していると言って過言ではないでしょう。

文献資料と先行研究から持論を展開しましが、史料が限定されているため結論も憶測に留まっています。本稿を書いた2012年時点で不破関跡の発掘調査は完了、鈴鹿関跡は発掘途中で愛発関跡は未発掘の状態でした。2018年現在もそれほど進展しておりません。三関の研究は考古学によってまだ検討の余地があるかと思います。今後の研究が進展することを祈りつつ、本稿を閉じることにしましょう。